有名武将アルバム

TOYOTOMI HIDEYOSHI

生没
1537年~1598年
正室
高台院
主な居城
大坂城
甲冑
緋糸威二枚胴当世具足
幼名
日吉丸

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。尾張国愛知郡中村に百姓として生まれたと伝えられる。

 木下藤吉郎と名乗り、寒中に信長の草履を懐で暖めるなどで目をかけられるようになり、次第に頭角を現していく。

 次々と領地を拡大していった織田軍にあり、浅井氏が滅亡した際、北近江三郡に封ぜられ、今浜の地を長浜と改め、長浜城主になると共に、名前も羽柴秀吉と改め、ついに一城の主と登り詰めたのである。その後信長に中国地方の攻略を命ぜられ、進軍、兵糧攻めや水攻めを駆使し、次々と攻略していった。

 しかし、備中高松城を水攻めにしている際、主君の織田信長が本能寺にて落命。秀吉はすぐさま毛利輝元と講和し、京都へ軍を返し(中国大返し)、明智光秀を征伐。京都における支配権を掌握した。

 後継者問題もあり、この後、柴田勝家との対立が激化するが、これを制し、滝川一益ら秀吉と対立する勢力を滅ぼした秀吉は、信長の後継者としての地位を確立した。

 天正11年(1583年)石山本願寺の跡地に大坂城を築いた秀吉は、3年後の天正14年関白となり、四国征伐、九州征伐、小田原攻めと次々に周辺を制圧、天下を統一し長年に及んだ戦国の世を終わらせたのである。また、内政に関してもその手腕は鋭く、太閤検地や刀狩りにより税制の確立と兵農分離を、楽市楽座、朱印船貿易、貨幣鋳造により、商業を振興し、信長の政策を多く発展させた。

 その後、かねてより明を征服することを計画していた秀吉は、二度にわたり朝鮮へ出兵(文禄・慶長の役)するが、二度目の出兵の翌年慶長3年、伏見城にて病死。享年61。

※武将説明に関しては諸説あります。御了承下さい。